加藤官房長官とエディ・ヴァン・ヘイレンと本当のこと。(正敏)

2020年10月6日にギタリストのエディ・ヴァン・ヘイレンが亡くなりました。

僕は高校生の頃ハードロックが好きで、ヴァンヘイレンも好きでした。

若い頃の歪んだ音も、おじさんになってからのクリアーな音も、どちらも温かみがあって美しいと思います。

エディの死について、若い頃に洋楽(この表現もずいぶん古いなぁとふと思いましたけど)が好きだったという加藤官房長官がコメントしたそうです。

コメントの内容はニュースサイトなどを見ていただくとして、そのコメントに対しての世間の評価は概ね良くて、「心がこもっている」とか「本人の言葉だと感じた」とかをよく見ました。

政治関係の記事に対してこんなコメントがつくことってほとんどないと思います。それが僕にとってすごく不思議だし嬉しかったです。

みんな本当のことを求めてる

んだなぁと思います。

政治に絶望する気持ちはよくわかる…というかそもそも政治に希望を持ったことが僕はないですが、それは政治批判とかじゃなくて、そもそも政治システムに興奮したことがないということで、ある種の性癖みたいなものだと捉えています。

確かに政治は大事だし、恩恵も受けているから最低限の関わりもする。

だけど、政治に人生かける人もいれば興味を持たない人もいる。

少なくとも僕にとって政治システムが「セクシーじゃない」ってことですよね。

小泉進次郎という人が政治家としてどうかということと別に、セクシーっていう発言を条件反射的に批判する人たちの「感じ」も含めて、政治にまつわることが僕にとってはあまりセクシーじゃない。

僕のこの文章だって、セクシーさからすぐに遠ざかってしまう。すぐに忘れてしまう。それはなぜか。

本当の心から出た本当の言葉を使わない癖が政治にあるからだと思います。

加藤官房長官がエディの事を語った時、加藤官房長官は加藤勝信という一人の人間に戻っていて、文字通り本当に存在が変容していて、その人から出た言葉だから国民…というか一人一人の山口さんにしろ長谷川さんにしろが「心がこもっている」とか「本人の言葉だと感じた」と感じたんだと思います。

人間が人間に戻った時にしか感動はないし、心の動きがない。

セクシーさというのは徹頭徹尾個人的なものだし、セックスも個人的なものです。

だったらそれをまず自分が生きていくしかないんだな、と思いました。

エディの死に触れて。

僕がエディに出会ってからもう20年以上経っているのに僕はギターがそれほど上手くなってないけど、今日も生きてます。

エディにはギターの素晴らしさを教えてもらうとともに、こんな気づきももらいました。

ありがとうエディ。安らかに。

エディを描いた。

(追記)

思い出したことがある。

エディはデビュー時にはものすっごい派手な服装に派手なギターを携えていたけど、ある時から髪をバッサリ切ってシンプルな服装になった。ギターもマスキングテープや塗装を施さなくなった。

音も、歪みが減ってギターそのものの魅力を指で引き出したような感じになった。

確かインタビューでそれらのことに触れられていた時に、

「普段の服装のままステージに上がれないのは変だと思うようになった」

「多くの人は僕が若い頃の音の方がすごいという。だけど僕は本当のことをわかっている」

というようなことを答えていたような…気がする。

音のことに関してはかなり僕の解釈が入ってるかも…自信ないけど、とにかくそういうことを言うギタリストってあまり、特に当時はいなかった気がして、今でも覚えている。

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