自分を生きる冒険の記録−2.人に言えることが自分に言えない矛盾

24歳で難病宣告され、30歳くらいまではとにかく記憶がないくらい大変だった。
しかし思い返してみると、その「難病宣告」以前から何かにいつも焦っていたし、急いでいたし、なにやら「大変」だった。

その難病になった前の年に私は大学院進学のために京都で一人暮らしを始め、授業が始まる夕方までの時間はバイトをしたり勉強をしたり研修でさまざまな現場に行ったりしながら、とにかく多忙だった。食事は授業が終わった21時半以降に適当にコンビニですませることも日常茶飯事。京都にきたからといっていろんな店にいったりのんびり鴨川に座ったりすることもなかった。なんというか、自分のための時間とか、遊びとか、楽しみとか、そういうことをやるのが苦手だったんだと思う。だから、子どもの頃からずっと「やるべきこと」に追われ、「こんなことしている場合じゃない!」と何かにせきたてられ、元来の怠惰な自分を責め・・・みたいなことを繰り返していた。

それで、今思うととても不思議なんだけど、坂道を転げ落ちるように心身を崩し始めたきっかけがあった。京都に来た年に今の夫である正敏と付き合いはじめたのだけれど、その付き合い始めてすぐに2人で正敏の実家の車で大阪をドライブしていて、大きな交差点で大事故を起こしたのだ。こちらは右折。相手は直進。こちらは右折の矢印が出たので発進したら、すれ違った大きなトラックで死角になって突っ込んできた軽自動車と思いっきり衝突。相手の不注意が原因とはいえ、向こうは赤ちゃんがのっていたので本当に危なかった。それでも全員無傷、車が壊れただけ、という今思うと震え上がるほどの奇跡的な事故だった。

しかし、その事故をきっかけに私は急に精神的な不調が出始め、バイトや研修にも支障が出るようになった。もちろん、どんなに心を奮い立たせても身体がまったく動かない経験ははじめてだし、私自身も臨床心理学を学んでいる人間だから、自分の状態がどんなものなのかはだいたいわかる。これが、「患者さん」ならばどういうだろうか。まず休養。1にも2にも休養。しかし、私は休めない。先生たちも、同級生たちも、全員これがどういう状態なのか知っているはずだ。それでも、休むという連絡をとることがどうしてもできない。そんなことをするくらいならば、這ってでも行く。自分がそんな病気のはずがない。しかし、心身はどんどん機能を停止する。生きる力はどんどん奪われていく。食べられないし、寝られない。あまり覚えていないけれど、何か自分の身体や心が自分から離れていくという「はじめての感じ」を経験していた。

この頃から、「人に言えることが自分に言えない」矛盾をはっきりと感じていたのだと思う。そしてそれは明らかに私だけではなかった。この時点で私は大学、1つめの大学院、2つめの大学院と、3つの場をみてきたし、どれも「対人援助」の場であったが、どこをみてもそうだった。

それで、結局大学内のクリニックに通いながら、大きな波、小さな波をどうにかこうにか乗り越えながら、なんとか大学や研修やバイトにも通っていたところに、今度はお腹の調子が悪くなり始めた。はじめは薬のせいかな?とか、身体化してきたか?とか、あまり重要なことではないと思っていたのだが、それこそどんどん悪化の一途をたどり、以前より体重が10kgくらい減り、トイレにこもりっきりになり、身体に力が入らなくなったあたりでこれはやばいと思った。高熱を出したり、痛みで悶え苦しんで夜間診療に駆け込むことも多くなり、そこで「ちゃんと検査をしたほうがいい」と言われ、それまでの人生でダントツに痛いつらい検査を終えて、気がついたら「難病患者」になっていた。

そして、その時はまだそこまでたいしたことではないと思っていた。わけのわからない絶不調に名前がついて少しホッとしたところもあったような気もする。治療法はないけれど、薬を飲めば多くの人はちゃんとコントロールできて、社会でもちゃんと活動している人もたくさんいると説明された。

その宣告された日、正敏に京都にきてもらい、近くのうどん屋さんでほとんど食べられない素うどんを前に「わたし、難病なんだって。」と言って泣いたのは本当によく覚えている。何が何だかわからなすぎて絶望もできなかった。

ただ、生きる力が出ないと、想像することも悩むこともできないのだと思った。そして、本当に苦しいことは簡単に言葉にはできない、語れないということも身をもって知ったのだった。

追記:人に言えることが自分に言えないと書いたが、自分に言ってあげられないことを人に「本当に」言えるとは思えない。このことはまた後日。

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