自分を生きる冒険の記録−7.人間であること

高校生の時、大学では心理学を学びたいと思った瞬間のことをよく覚えている。図書館で、河合隼雄先生の「こころの処方箋」をたまたま見つけて、パラパラとめくった時に全身が波立ち顔にぶわーっとしびれがくるような感覚があった。

小3と小4の時に学校でひどいいじめにあっていて、その時から居場所のなさを感じていた。人に必死に媚を売って気に入られようとすることでどうにか存在できるように頑張る癖がついた。それから、人間関係には常に恐怖心や苦手意識がある一方で、楽しいことであれ悲しいことであれ人と深くつながりたいという気持ちがすごく強かったと思う。でも、なんだかいつも不器用だった。それで先生に反抗したり、一緒にご飯を食べている友人と喧嘩しては目の前が真っ暗になったり、また受け入れられたら心から安堵したりしていた。(もちろん気のおけない友人もいたし、ここ数年で京都や東京で中学・高校の友人と何人も再会できたのもとてもうれしかった。今だから話せることもあるよね。)

「こころの処方箋」を読んだ時、なかなか言葉にできないような心のこと、人間のことをこんなに真剣に大切に扱う学問があるのかという衝撃があった。それまで先生や親には全然違う志望分野を話していたけれど、直感的に「これだ!」という感覚があった。その時はカウンセラーになるとか、そんなことはあまり考えていなくて、とにかくやってみたいという気持ちだった。自分のこともそうだけど、周りの人たちのことも小さい頃からものすごくよくみて感じている人間だったのもあったのかもしれない。

その時から20年たった。32歳で心理学という学問とは別れ、もう二度とやらないと思って本や資料も大半処分した。そのかわりに「学問」や「科学」ではない視点からやっぱり人間のことをずっと考えてみてきたんだと思う。自分自身のことだけでなく、「きく」とはどういうことなのか、「生きている」とはどういうことなのか、そして「いる」とはどういうことなのか、、、そんなことをいろいろな場作りや表現や農やさまざまな智慧を学ぶことにより実践と探究を続けてきた。

そして、今。
まだうまく言葉にできないけれど、目に見えるもの、形になっているもの、目に見えないもの、形になっていないもの、これらをこの世界に存在するものとして等しくみてきいて感じていきたいと思っている。カウンセリングは言葉でのやりとりがメインのようだけど、そうではないと思う。言葉にできないこと、形にならないもの、それらの存在も同時に感じていなければ人間をみているとはいえないのではないか。

私たちはただ存在しているだけでたくさんのことを発信し受け取っている。形や言葉の世界に身を投じて、そこでの世界がすべてだと思い込んでしまうと、自分も誰かも心を持った人間であることを忘れてしまう。私は人間でいたい。自分を生きたい。できるだけ正直に素直にこの生命を謳歌したい。本当の言葉だけを話したい。どうしてもここに行き着いてしまう。

この世界に希望を持って生きていくことをみんな望んでいると思う。でも、その願いを共有するには何かバランスが崩れているのではないだろうか。大きな視点でみるとどうすればいいのかわからなくなるけれど、世界や社会や地球や宇宙が私たちの精神や身体と連動しているのだとしたら、それぞれにやれることがあるはずだと思う。私には何ができるだろうとずっと考えている。

ひとつ思うのは、今、人間と生命を本当にみてきくことのできる人間が必要だということ。もう「明るさ」の隣にある闇をこれ以上ないことにはできないところまできているということがこの半年の私の実感だ。

この連載は明日で最後です。今書けることを、書ける限り、ありのままやってみるつもりです。

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