境界線を描かずに描くということ。 (正敏)

これから新たに生活していきたいなと思っている場所に短期滞在している。

アーユルヴェーダでいうブラフマムフルタの時間に起き、丘と空を眺めながら白湯を飲んでクンルンネイゴンプラクティスをする。朝食を食べて、今日はどこへ行ってどんな出会いがあるだろうか、と身をまかせる。

こういう時間と空間に浸ることができていることに感謝する日々。

境界線を意識して描くということ

時間がかかった大きな絵なんだけど、一番こだわったのは肌、次にこだわったのが髪の毛の輪郭だった。

肌、輪郭線。つまり境界線。

顔を描き始めた時は目や口や鼻というパーツの描きわけにハマる時もあったし、今も楽しいんだけど、人の身体と世界との境界線をどう見、どう描くかということが面白くなってきている。

『人は皮膚から癒される』という山口創さんの本を読んでいる。

ゴッホの絵がなぜあんなに揺らいでいるのだろう、というのが前から疑問だった。あの揺らぎは彼が「世界には境界線というものが明確にあるわけではなく、微生物や素粒子が蠢いて、揺らめいて、混ざりあっている場所が境界線だ」ということを体感として持っていたから出せたのかもしれない。

アーユルヴェーダやエソテリックの世界を楽しみながら学んでいるのだから、表現としてもそれを備えていきたい。

境界線の揺らぎを描くことの意味

僕たちの多くは、人や動物や家を描く時、輪郭線=境界線から描く。

絵を教えてくれる親や兄弟や先生や友達がだいたいそうやっていたからそうなるのだろうか。

だけどこれは描き方の奥にある「物の見方・考え方」に立脚していて、無意識レベルにまで遡って行けることだ。

「物と物とは繋がっていなくて別のものだ」「AとBは違う」という考え方。分離。

「AとBは違うけど同じだ」とは言えない。なぜならそれは矛盾になるから。

矛盾はダメなことだ、と教わった。把握しにくいから、理解できないから。

把握できないこと、理解できないことこそ、存在であり、生命であり、表現。

矛盾をそのまま肯定して、切り分けることなく存在させる。

その感覚の中に入っていく。

ずっとずっと中に入って沈み込んでいく…すると、何か懐かしいものに出会うことがある。

物と物とは別れていない、もともと一つだった。そうそう、そうだった。だって…説明するのも面倒くさいけど、あたりまえじゃない。

そんな感覚。

それを単なる精神論じゃなくて、行為として、営みとして世界に着地させる。

その一つの方法として、僕は目の前にいる人の顔の境界線を描かずに描く。

正敏の仕事

顔を描く

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