わかってもらう努力をすることとわかりやすくなろうとすることの違い。 (正敏)

北海道長沼町の幌内に滞在して9日。

随分とゲストハウスにも慣れて、長沼でたくさんの人と再会したり知り合ったりした。

似顔絵やイラストの仕事を軸に、どのようにこの地で暮らし、どのような人間として生きていきたいのか。

人と触れ合う中で考える。

人と会い、話したり聞いたりすると、僕は人の言葉のリズムや声や表情と「共鳴」というか、響き合うような感じがして、その状態が楽しくなる。

もちろん誰とでもというわけではない。

簡単にいうと人とコミュニケーションをとることが好き

なのだけど、では自分のことを人に伝えるのが得意かというと、そうでもない。

昨日長沼町のカフェこぐま座のミス・バレンタインさんに星読みをしていただき、改めて「そうだった!」と思ったのだった。

僕は子供の頃から両親や親戚と話をして「わかってもらえた」と思ったことがほぼない。

親戚のうちでも特にあの人とあの人とあの人には本当に通じなかったな。

そして両親にはどちらにもついぞ話が通じたことはなかったと思う。

わかってもらえないと感じた経験があるから、わかってもらいたいという思いもまた強くなる。

だけど、そこで「わかりやすくなろう」とすると、滑ってしまう。

自分という人間を自分自身でも全然わかっていないにも関わらず、たった数十年学んだだけの言語でなんとかわかりやすくしようと思考したり話したりして、相手の使っている言語は相手のいきてきた中で培ってきた言語であって、それでもって理解しようとしてくれているのだから、これはもうすでにズレまくっている。

全く違う素材をつなぎ合わせて、なんとか同じ色に塗りたくって、一つの地盤ができているかのように見せているだけで、脆弱極まりない。

そもそも違うのだ。

言葉も、いる場所も、見ている景色も、嗅いでいる匂いも聞いている音も食べているもの味わい方も。

僕たちは一人一人全く違うのだ。

それは個性的だとかいうことではなくて、あまりにも違いすぎるということに絶望する感覚。

何にも伝わってなかった。というか伝わるはずもなかったということ。

そこから、わかってもらおうとする旅が始まる。

わかりやすい存在になろうとする必要はなく、ひたすら、わかってもらおうという思いをもって行動すること。

僕はこの手で世界に喜びを生み出し続けたいのだ。

話が通じないのが当たり前の世界で、おじいちゃんだけは隣で絵を教えてくれた。

喫茶店に連れて行ってくれた。

指遊びでリズムを奏でることを教えてくれた。

晩年のおじいちゃんとはそんなに話せなかったが、僕に手の使い方を教えてくれた。

僕はこの手をで世界に喜びを生み出し続けたいのだ。

赤阪正敏の仕事

「顔を描く」

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