今、ここからを生きていくために(mayu)

この文章を出すのに少し時間がかかりました。こうやってひとつひとつ、できなかったことのタガを外し、自分を縛っているものから抜け出ていく。この10年、というものを考えるならば、そんな繰り返しの日々だったのかもしれません。結果的にこの文章はその探索と挑戦の記録になったように思います。それが私にできる祈りであり、希望をつなぐということです。すべてはつながっています。終わらせては始まり、壊れては修復されていく。あらゆる生命がその循環の中で生きています。
長い間自分に肩書きというものをつけられなかったのですが、「カウンセラー」をもう一度やろうと決めました。いや、本当はずっとやってきたのだと思います。果たしてそれがふさわしいのかはわかりません。変わっていくかもしれません。ただもう、どう見えるか、なんてこだわらなくていい。形は勝手にできていくし、どうせ壊れて、また再生するのだから。言葉に潰されなくていいし、名前に縛られなくていい。
わたしがいて、あなたがいる。それがすべて。
そこにもうわたしは大分前にたどり着いていました。それで「IRU Project」と名乗ることにしました。そう、名に「乗った」のです。これに乗ってどこまでもいこうと決めたのです。

少し長くなりましたが、最後までお読みいただけるとうれしいです!


自分の病気がなぜ起こって、なぜ治癒したのか

これを解明すべくずっと探索してきました。

24歳で潰瘍性大腸炎と診断され、8年ほど入退院を繰り返す重症でした。生命の危機も何度か経験しながら、さまざまなきっかけによって大きく生き方が変わり、紆余曲折ありながら現在は治癒したといえる状態にあります。まさにおかげさまです。

長く関わっていただいたかつての主治医には心から感謝しています。入院中にも必ず毎日仕事を終えられた深夜近くに顔を見にきてくださったこと、資格試験のための外出許可をまわりの全員が反対する中出していただき「グッドラック!」とかたく握手して送り出してくださったこと、いつも前向きな態度で接してくださったこと、常にあらゆる可能性を模索してくださったこと、先生の存在にどれだけ救われたことでしょうか。

ただ、何をやっても良くならなかった。それまでの治療とはまったく違う、他の可能性があることを知ったのは本当にたまたまでした。ただ、それに言葉にはならない何かを感じ、導かれるように足を進めてきました。必ずしも試したことすべてに対していい結果が出たわけではなかったのですが、さまざまなことを自分一人で選び、進んできたので、誰にも頼れない、誰にも相談できない状態で症状が再燃した時には本当に窮地に立たされたような気持ちでした。(その再燃した理由も後にきちんと腑に落ちました)
それでも、わたしの身体はきちんと生きるために日々働き続け、今に至ります。

わたしに一つの選択肢しかなかったならば、今どうなっていたのだろうとふと思うことがあります。
そして、この世界に「必ずしも主流派ではないけれど、私たちをサポートしてくれるさまざまな知見」や、それを純粋な想いで熱心に(まさに生命をかけて)突き詰め、シェアしてくれている人たちがいることを知り、わたしは生命をつなぐことができました。

誰かを助けるということはきれいごとばかりではありません。わたし自身もカウンセラーとして働いてきて、人間としての未熟さを突きつけられることばかりでした。それでも、自分がケアを受ける側になった経験からも、さまざまな形で人とかかわることや生きることについて考えている人たちとの出会いからも、人は人に救われるということ、それもたった一瞬で実際に人生を変えてしまうほどのすごい力があるということも知っているつもりです。

そして、わたしはかつて心の臨床家になろうと決めた時からずっと、そんな存在になれればという想いを持ち続けてきました。

今、私にやれることはなんだろうか。

わたしの学んできたことや、通ってきた道で考えてきたこと、実践してきたことがもし誰かのサポートになればいいなという気持ちで改めてこの文章を書いています。

子どもの頃から今までどんな食生活をして、どんなストレスがあったか、どんな不調があって、どんな対処をしたりしなかったりしてきたか、どんな薬を飲んで、どんな人と出会い、どんな心で暮らし、どんな思想にふれ動いてきたか、洗いざらい出していきながら、わたしという存在の変遷を何年もかけて振り返り向き合ってきました。

長い間学んできた心理学や精神医学だけでなく、食にまつわるさまざまな思想、農や自給のこと、表現のこと、アーユルヴェーダをはじめとするさまざまなホリスティックなアプローチ、免疫学や生化学などなど、さまざまな学びを重ねていくうちに、今までわたしに起こったことがすべてパズルが嵌め込まれていくように、論理的に一本の線となっていきました。

もしかしたら、私がたまたまラッキーで良くなったのかも?と思い、自分の経験が援用可能なのかということをずっと探ってきました。
(わたしがそうであったように)簡単ではないけれど、順を追って学び、自分を知り、見て、聴いて、向き合うことさえできれば、必ず道は開けていくはずだと今は確信しています。
機序を知っていくと、○○を食べれば健康になる!とかそういうことではない、もっと根本にシンプルで大事なことがあるのだと理解できるようになりました。

何を学んでも、この世に存在するすべてを構成するものと、わたしを構成するものがまったく同じであり、それぞれは固有のものでありながらすべてつながっているのだというところに行き着く。
それが本当に腑に落ちた時、わたしの視野が急激にぐぐぐっと広がり、遠くにはっきりと見える、私をサポートしてくれる光を感じました。
言語化できるところから少しずつでも、今のわたしの視界をシェアすることができるならば、それはきっと誰かをサポートする光になりうるのではないかと思っています。

そしてこれは、みんなが本当は知っている光、つまり太陽のようなものだと思うのです。

私たちは子どもの頃からたくさんのストレスを受けています。
例えば、いろいろな失敗の経験、家族や友達との不和や別離、教育や学習によって身につけたたくさんの観念、そして、本来身体を構成するものではないものの摂取、例えば食品添加物や薬、大気汚染や電磁波なども含まれます。そして、身体にかかるストレスと心にかかるストレスは分けられるものではありません。ただ、ダメージの受け方や現れ方が個々人で違うということです。

外からやってくるものに対して、私たちには戦ったり排除したり防御したりする力、つまり免疫が備わっています。
免疫というと身体の作用というイメージがあるかもしれません。
でももちろん心にも免疫があります。心理学では防衛機制と呼ばれたりもしますが、嫌なことがあった時、抑圧したり、逃避したり、正当化したりするといった心理的作用が働きます。

「ストレスは身体に悪い」というのはほとんどの人が知っていることだと思うのですが、これは不調があって原因がはっきりしない時にいう言葉だったり、「生きていたらストレスはみんなあるからね」といわれたり、実際にはあまり重要視されていないように思います。もしくはストレスに気づけないほどに心が乱れてしまっているかもしれませんし、思いがけないことが心身には大きなストレスになっていることもあるでしょう。
しかし、実際に心身のストレスが自律神経のバランスを崩し、さまざまな病いの原因になることにはエビデンスがあり、きちんと学んでみると侮れない、というか、実はストレスをきちんと扱うことこそが健やかに生きていくには一番大事なことだといっても過言ではないと思います。

長い間心のことを学んできて、同時に病いと向き合うことになり、ここのところ身体のことも含めて人間全体として腰を据えて学ぶようになって思うのは、身体と心のことはまったく同じレイヤーで捉えなくてはならないということです。
(これは当たり前に世界を捉えるベースの考え方になっている二元論を手放すということにつながるので、言葉で表す以上にずっとずっと深く、難しいことだと思います。)
身体と心はつながっている、ではなくて、私という存在を構成している部分であると同時にすべてこの「場」で起こっていることだということ。どこか一部分だけが病んでいて、他が何の問題もないということはありえないし、どこか一部分だけでその人だということはできません。

目があって、鼻があって、口があって、耳があって、顔であるように。
脳があって、心臓があって、肝臓があって、腸があって、皮膚があって、骨があって、肉体であるように。
身体があって、心があって、魂があって、人間であるように。
根があって、茎があって、葉があって、花があって、植物であるように。
父がいて、母がいて、兄がいて、わたしがいて、家族であるように。
わたしがいて、あなたがいて、あの人もあの人もあの人もいて、社会であるように。
人間がいて、動物がいて、植物がいて、空気があって、水があって、森があって、地球であるように。
たくさんの天体があって、宇宙であるように。

私自身が「自己免疫疾患」にかかって、それが自分の免疫が自らの組織を壊していく病気だと知った時、「それはまさにわたしの病気だ!」と思ったのを覚えています。自分の中に内在化した声はいつも自分を否定し、攻撃されているように感じていたからです。医学的には「原因不明」だといわれていても、感覚的には自分の中で起こったこととしてまったく矛盾しないように感じました。そして、そういう自分とは向き合えないし、向き合ったこともないから、病気がひどい時は悪いことをしてくるコントロール不能の悪魔のような存在が身体に巣食い、被害を受けているような感じがしていました。
そして、振り返ってみると、病気だとされる少し前にそうなったわけではなく、ずっとそういうふうに生きてきていて、そして小さい形ではずっとずっと前から心身はサインを出し続けていたことにも気付きました。それでもそれをみるきっかけもなく、ずいぶんと身体や心の声を無視しつづけ、むしろ傷つけるようなことばかりをしてきたように思います。
(でも、その時はそうするしかなかったよなぁとも思っています。心理学やケアを学んでいたにもかかわらず、学んだことと目の前にある現実、わたしに起こっていることがまったく結びついていなかったのだと。そして、今自分の意思で改めていろいろなことを学ぶようになって、学ぶということについてもいろいろ考えさせられました。)

すべての動きを強制的にストップさせてまでわたしの心身にはたくさんの処理しなければならないゴミのようなものがたまっていて、それをしないと生き延びられないところにまできていたのでしょう。
でも、結局その強制ストップの時からその状態を抜け出し、客観的にすべてを俯瞰し、理解して納得するまでに15年くらいかかりました。
これは身体が病気でない状態になったということだけではありません。自分としてこれからを生きていく力を取り戻すまでということです。それにはやはり、身体だけでなく心の面での回復も必要でしたし、むしろそちらの方が大変だったとすら思います。
同時に、どんなに免疫抑制剤を大量に飲み続けてもあの激症を止めることはできなかったということが、わたしの生命力の強さを表していたのかもしれないとも今になっては思います。

私たちはこの世に生を受け、初めての呼吸をし、胸に大切に抱きかかえられながら声を上げた瞬間からずっとずっと絶えることなく、世界と対話し、呼吸し、響きを伝え、受け、傷つき、治し、身体と心を守り、生きてきました。そのありさまが、誰かを助け、生かし、同じように私たちも生かされてきました。
私たちには、この世界には、この地球には、生きていく力があるのです。生命があるのです。生きているのです。

かつて、私自身も自分を否定していましたし、その分と同じだけこの世界を否定してきたと自覚しています。きっと私だけじゃない。多くの人が自分という存在で生きることに自信や勇気を失っているのではないでしょうか。

そして、どこか私たちの生きる道を運命論のようにとらえていたのだと思います。言い換えるとそれは因果論、つまり過去を重要視し、今はその結果だという捉え方です。
もっというと、そういう考え方というのは現代日本社会では一般的に共有されているものなのではないかなと思います。例えば、「こういうふうに育った人はこういう人になる」とか。

もちろん、これまでのことをきいていくことやなぜ今こうなっているのかについてひとつひとつ紐解いていくことはとても重要なことだと思います。しかし、もっとも大事なことは今、ここからどうしていけるのかということ。今どんなところに立っていたとしても必ずやれることはあるし、未来は創造していくことができる。
生命があるというのは、その力があるということです。

ただ、私たちは自然に備わっている力を自ら堰き止めてしまうことが多々あることも事実です。
それはたくさんの情報によって刷り込まれた信念、思い込み、そしてそれに基づいた日々の選択。。。そしてその選択が無自覚のうちに狭くなっていることも多々あるでしょう。また、情報過多の日々の中で、刷り込みや思い込みで実はあるべき方向とは逆の選択をし続けてしまい、より悪化させてしまっていることもあるでしょう。(わたしにもたくさん覚えがあります)

宇宙も、私たちの身体も、生き延びるためにバランスをとろうとして働きます。それは私たちの意志にかかわらず行われることです。本来ならばそれだけでいいのかもしれませんが、今私たちが生きている環境では抗えないストレスもありますし、日々何を食べるか、どんなふうに時間を使うか、によってさまざまな影響を受けながら暮らしている以上、私たち自身もそのことについてよく学び、日々この生命を生きるためにさまざまなエネルギーを注がなくてはいけないのだと思います。


自分がどういう性質を持っていて、今どこに立っていて、ここからどう動きたいのか、もしくはどうやってバランスをとっていく必要があるのかということを知ることはとても大事なことだと思います。


受動的に情報の渦の中に飲み込まれるだけでなく、きちんと学び、視野を広げ、思考を柔らかくしてみると、choiceの幅が広がり、それだけより良くなっていく道には近づくはずです。そして、大きな視点でのこの世界の原理原則を知り、自分の感覚とつながる習慣を身につけることで、惑わされることなく自分にとって必要なことを選ぶ力が身につきます。
誰にとっても正しい答えというのはどこにもありません。常にわたしにとってどうかということだけです。そして、その選択のサポートとしてさまざまな知恵や道具を用いるのもとても大事なことだと思います。

病いがあろうとなかろうと、元気であろうとなかろうと、日々を生きるということは流れの中にいるということです。流れがあるということは波があるということです。太陽が出ている時間と月が出ている時間があるということです。人には見せられない姿や、簡単に話せないことは誰しもあって当たり前です。隣にいる人やつながれる仲間、さまざまなサポートの仕事をしている人、本の中の物語、新鮮で瑞々しい食べ物、あたたかいお風呂、今のわたしに合ったアロマオイル・・・苦しい時、前に進むエネルギーが出ない時、さまざまな力を借りながら養生することをおすすめしたいです。私たちはどんな時も決して一人ではありません。今そう思えないとしても、心身にエネルギーがきちんとまわるようになれば必ずあなたにとって正しい道が拓かれていくと思います。

そして、きっと世界はもう「わたし」がどう生きていくかということにしっかり目を向けなければバランスがとれないところにまできたのだと、サインを出してくれているようにわたしにはみえます。
わたしの内側から響いてくる声をきくことができるのはわたししかいないのです。

今、ここからを生きていくために。

最後まで読んでくださってありがとう。
これを読んでくださったあなたの生命と今ここにいるわたしの生命はつながっています。
ここからを歩いていく道すがら、必要になったらこの場のことを思い出してもらえるとうれしいです。


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