かつて嫌いだった言葉(mayu)

とても変化、というか進化のはげしい日々です。
すごく心が安定していて、本当にこれからが楽しみ。
こんな感触は初めてだなぁと思います。

形としては何も変わっていないから、今までだったら何もできていない、何も進んでいないと焦っていたかも。
でも、目に見える何かがないと進んでいないなんて、そんな小さなスケールで生きていてもつまらない。
生命の躍動を感じて、自分という存在とこの世界に喜びを感じて生きていきたいのです。

そもそも、私たちは身体も心も魂も、ひとつの尊い存在として、愛に包まれて生まれてきたはずでした。
迎えてくれた世界と、産んでくれた親を信頼し、すべての感覚で学び、自分という個体を形成し、創造してきました。

自分という存在を愛することは、愛とわざわざ言うまでもなく、すべての始まりに他ならないことをきちんと知っていたのだと思います。

しかし多くの人にとって、いつしか自分という存在は「あるべきとされる姿」に置き換えられたものになっています。それが「生きる術」であり、「成長」であり、「目標」でもあります。

人にはそれぞれに大切なものがあります。守りたいものがあります。
なんであってもいい。他と違っていい。

ただ、何かうまくいかない感じ、寂しさ、虚しさ、居場所のない感じ、愛されていない感じ、などがあるとしたら、私が私に愛を持って扱われていないという叫びなのかもしれません。
その叫びはどうしても無視できないくらい、いろんな形で現れてきます。
時に、(いろんな意味での)生命の危機として切実に訴えてきます。

身体にいいとか、こうすればうまくいくとか、心が楽になるとか、豊かになるとか、愛されるとか、いろんな方法論や自己啓発があるけれど、
私は、自分への愛に許しを与えるところからしか始まらないと、ここのところ確信しています。
これは、必ず、誰にでも例外なく備わっているものです。
そして、自分にしかできないことです。

愛、という言葉を使うことがかつては嫌いでした。
自分の果てしない苦しみを、その一言で片付けられたように感じたことが何度もあったからです。
遠くに置いて、突き放してきました。

けれど、やはり、私は愛によって救われてきたし、この世界も愛によってしか維持できないと思うのです。

いろんなプロセスをたくさんたくさん経て、しがみつくようにどうしようもない苦しさと向き合っていくうちに、愛からも逃げてはいけないと思うに至りました。
深くて、難しい、けれど、何よりも純粋な希望であるそれを、そろそろ私は完全に信頼して、そこに沿って歩みを進めてもいいのではないか。

身体のこと、心のこと、人間関係のこと、世界のこと、自然のことをずっと学んできて、すべての共通原理はそこにあるのだと私は思っています。

そこに従えば、どんな時代になっても、どんな世界になっても、どんなことが起こっても、きっと、きっと大丈夫です。
自分にとって必ず正しい選択をしていくことができると、私は信じています。


そんなタイミングで、親友からものすごく久しぶりに連絡があり。
ずっとすれ違いで会えなかったのに、すぐに会えることになって本当にうれしかったな。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。