『もののけ姫』への思い。 〜男女の対立を超えて「自分を生きる」〜 (正敏)

先日TV放送されていた『もののけ姫』を久しぶりに見ました。ジブリ作品で一番好きで、だけどその理由がわからない作品だったんです。それをこうして振り返り、探りつつ書いていこうと思っています。

僕は映画にもアニメにも宮崎駿監督にも詳しいわけじゃなく、本当に僕個人の感想と体験を書く感じになりますが、いつも僕のブログを読んでくださる方にも、そうでない方にも、もののけ姫に思い入れがある方にも、そうでない方にも、何かが循環すればいいなと思っています。

(ネタバレに近い部分もあるかと思います、これから作品を見ようと思っておられる方は一応自己責任でお願いします)


対立、分断。特に性意識について

物語のメインになる舞台の一つにタタラ場という集落があります。タタラ場のトップはエボシ御前という女性です。タタラ場は身体が変わってしまう感染病や障害を持った人、捨てられた人たち、制度上差別された人たちがそれぞれに居場所を与えられ、働き、その集落をみんなで維持し、暮らしています。

もののけ姫は人間文明と自然、人間と動物、支配者層と被支配者層、生と死、神と人など、あらゆる対立や分断を描いている作品だと僕は思います。(個人的には世界がバラバラに分断されていると感じる今TV放送してくださったことに本当に感謝しています)

この対立や分断の一つに「男と女」があります。

エボシ御前は集落の女性たちから絶大なる信頼を得ています。(男性たちや感染病や障害を持った人たちからも慕われています)

病や障害を持つ人たちは性の差はなく一つどころに集まって働いています。彼らは皆それぞれ症状の程度の差こそあれ病や障害という軸に貫かれた集団で、そこに男女の分断は感じられません。

そして、彼らに対して(健康な)女性たちは普通に関わっています。一方男性たちはどちらかというと厳しくというか、権威主義的に関わっている場面がいくつかありました。

そしてここが僕が気になるところで、集落では女性たちが男性たちに基本的に否定的というか、悪態をつきます。男性たちは言い返す場合もありますが、おおくはむすっとしたり「ぐぬぬ…」というアニメ表現によくある表情をして終わりです。そして女性たちは男性をバカにして笑いあってそのシーンが終わる、という感じです。少し頭が回るタイプの男性として描かれているキャラクターはそれにはあまり関わらず、アシタカに女性たちの「非礼」を詫びる、という行動に出、アシタカが「元気な村では女性が元気だと聞きます」という風に返します。これが男女逆なら殺伐とするというか、なんか暗い感じになるというか、ほのぼのする感じにはなりませんよね。そういえば主人公アシタカが生まれ育った村の様子は少ししか描かれませんが、あまり女性が生き生きしているという描写はありませんでした。

これは現代社会の縮図ですが、それはやはり24年前の作品で、僕は少し「古さ」を感じました。もちろん過去の作品なので仕方なく、24年で時代は変わったんだと思います。

僕は子供の頃からずっと「男女平等の名の下に振り下ろされる男性否定の言葉」にとても敏感でした。だからと言って男女平等に関する運動に参加したとか、そういう歴史を学んだとかは全然ないのですが。

また、エボシ御前が決戦前夜に女性を集めて作戦会議をするときに「男たちは頼りにならない」と伝えたり、女性たちがエボシ御前の側近の男性に「あんたも女だったらよかったんだよ」のようなことを言い、その男性が「ぐぬぬ…」となりエボシ御前が笑う、という場面があったりもします。

これらは社会における女性の鬱憤、差別された者からの反発として表現されているのだと思うのですが、結局これをやったら一緒じゃないか、と思うんですよね、僕はいつも。物語では森の動物同士の争いも重要な場面なので、あくまで「人間の愚かさ」として意図的に描かれているのかもしれません。

現実社会でも「これからの時代は男性はおとなしく女性のいうことをきいたらいい」とか「男より女の方が優秀だ」のようなことを声高に叫ぶ人や場面を見るたびに「ああ、これがいわれなき差別か」と感じてきました。それをいうなら男も女もおんなじじゃないかと。

確かに男性が女性を抑圧してきた歴史はあるのですが、だからと言って繰り返すのは愚かだし退屈な解決策です。

24年経ち、こういう表現が当たり前だった時代を思い出しました。それに比べて今はよりフリーというか、単純な女性差別や男性差別は影を潜めてきたように個人的には思います。性のことを話すためには踏まえるルールが多くなりすぎて語りにくくなっただけかもしれませんが。

自分を生きることによる救い

作品のラストでアシタカとサンが神に心を込めてある大切なものを捧げます。直前までジコ坊というキャラクターがそれを人間的エゴで大事に抱えていましたが、直前で命には変えられず、アシタカとサンに譲ります。

アシタカとサンの行動はエゴを超えたものとして、二人の命だけでなく、多くの命を救う結果になりました。最後の最後、ジコ坊も二人の行動について「バカには敵わん」というセリフを残しています。

このセリフが僕は好きです。ジコ坊というキャラクターには僕はどうしても感情移入してしまうところがあって、「社会的に上手く立ち回りつつ、自分のエゴも満たす」という小狡いトリックスターのような動きをします。だけど、心の奥底でそういう自分を蔑んでいる節もあって、「大いなるもの」「純粋なもの」に心惹かれていることが伝わってきます。

終盤でデイダラボッチと呼ばれる神のような、自然の象徴のような存在が暴れ出します。上空からデイダラボッチが自分を狙って落ちてくる時、ジコ坊はそれを見上げ、命の危険の中にありながら、驚いたような恍惚としたような表情を一瞬浮かべていました。あれは意図的にそう描かれていたはずです。

あの感じ、わかるなぁと思うんですよね。僕は高校生の時自転車でノーブレーキで急カーブにツッコミ、崖から自転車ごと墜落したんですが、あの瞬間、ブレーキをかけて止まっていれば落ちなかったのにあえてブレーキをかけないまま墜落しました。絶対にノーブレーキで曲がることを自分に課したわけです。めちゃくちゃバカですが、あの時の宙を舞う感覚、「死ぬ」という恐怖、音が消えて景色がとんでもない鮮やかさでぐるぐる回る感覚は今でも思い出しますし、恍惚とした感じが身体に蘇ります。奇跡的にくぼみに身体が収まり、川に落ちなくて、単なる怪我ですみました。

あの「俺なんか大いなるものに全部飲み込まれちまえ」っていう感覚ってどこかにあります。でもやぱり死にたくはないからジコ坊はギリギリで避けるんですが。僕もなんだかんだ言って受け身をとったりとかして自分で自分の命を守ったのだと思います。

もののけ姫では人間の小賢しさ、エゴ、憎しみあいを超えるものとしてアシタカとシシの「愛のようなもの」が最終的に世界を救う様子が描かれます。でも、他のジブリ作品に比べて、この二人の男女の関係に恋愛的なニュアンスは控えめにしか描かれていません。頬を赤らめる場面とかもない。(別のキャラクターがアシタカに頬を赤らめる場面はあるので、表現としてそれを禁じているわけではないことがわかります)

僕はこの二人の関係性を見て、「愛が世界を救う」ではなく「自分を生きることが世界を救う」というメッセージを感じました。そこが僕がこの作品に惹きつけられた理由なのだと思います。(答えが出たかもしれません!)「愛が世界を救う」も一つの真理だと思うし、僕には大切な妻がいるし、僕はヘテロセクシャルだから女性にしか恋をしたことがありません。多分これからも。ですが、それでも「男女の愛」だけが正しいとはどうしても思えないところがあります。大切な友人がセクシャルマイノリティだとして、そのことによって友人への気持ちが変わることがないので。

だから、僕は「男女の愛」をテーマにするよりも、「自分が自分を生きること」をテーマにした作品こそこれからの多様性の時代に必要なものだと思います。男性だとか女性だとかではなく、一人の人間として「自分を生きる」を考え、実践していく中で内側から発せられる光としての愛情が同性に向かうのか異性に向かうのか、もしくは両性にむかうのか、そこに善悪がなくなっていく。男と女の対立だけはもうたくさんだし、そこだけはもう古いよ、と思いながら、やっぱり『もののけ姫』は僕にとって最高のジブリ作品であり続けそうです。

昨日見れてよかった、改めて素晴らしい作品をありがとうございます。

「自分を生きる」ことをこれからも考え、実践し、共にしていける仲間に出会えますように!

<正敏の仕事>

星の舞台の主人公への手紙×ブルーポートレイト

ポートレイト・イラストレーション

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