光あるところ、意味は自ずから達成される。 (正敏)

おはようございます。

今日は人に怒られる夢を見ました。それで目が覚めたらまだ2時半だったんだけど、もう起きちゃえ!ということで起きて生姜白湯を飲んでノートに色々書き出してました。現時点で4時半。あっという間の2時間でした。

僕は夢に出てくる登場人物も現実で出会う人もどちらも自分自身であると思っています。もちろん現実の人(つまりこのブログを読んでくださっているあなた)はあなたであり僕ではないですが、それとて僕の認識の仕方一つで「僕にとってのあなた」は現れ方が変わってきます。あなたにとっての僕もまたそうでしょう。

僕は僕への怒りを登場人物に乗せて表現したんですね。めちゃくちゃ苦しかったけど、さもありなんという感じがしました。ノートに書き出しているうちにそれに気付けてスーッと楽になりました。

ふと、僕が子供の頃習字に行っていたことを思い出しました。家の近くの阿弥陀寺というお寺で住職の奥さんが習字教室をやっていて、僕の祖父がそのお寺と縁が深くて。正直僕は昇級するとファミコンのカセットを親父が買ってくれるという条件を交渉により勝ち取ったことでなんとかモチベーションを保って通ってたので、字を書くことの楽しさを感じられていませんでした。

勿体無いことをしたけど、それがその時の僕だったんです。

こじんまりとしたお寺だったけど、柳の揺れる境内をガラス越しに眺めながら、お線香の匂いのする講堂に正座で並び、字を書いたあの感じは、僕の中に残っています。あれは静けさだったな。

字を書くというのは大変な創造行為だと思う。僕が喜びをもっと感じられていたら、紙の上に墨汁で現れたそれは僕の内側の響きの軌跡となって、言葉の意味を広げていたんだろうと思う。カセットを買ってもらうためじゃなく、字を書くために字を書いていたら。表彰されることに純粋に喜べていたら。

そんなふうに思っていたら、ノートも丁寧に書きたくなって、途中で字が変わった。

字を丁寧に書くというのは改めて奥が深いなと思ったよ。

字には書き方というのがあって、その基本を踏襲しつつ、それはあくまで形としてある。そこに自分の内側の響きを沿わせて行く必要があるのだろうと思う。習字は小6でやめてしまったし、全くわかっていないのだけど。

丁寧に字を書こうとすると肩に力が入ったり呼吸が浅くなったりしてしまっていることに気づく。気づいたら手放して行く。すると、字が少しずつ形から自由になり、丁寧だけど柔らかくなって行くのを感じる。僕の中の響きが時に流れ込んで行く感じ。

瞑想やプラクティス、呼吸法をやって自分を見つめているときに近い。

言葉には意味がある。書くときも、話すときも。

書き文字には響きがあり、話す言葉には声がある。

書き手、話し手の光だ。

言葉の意味はもちろん大事だけど、光なしに意味はない。

意味に意味を与えるのはあくまで光であって、光のない意味など意味がない。

光あるところ、意味は自ずから達成される。

美しい文字で「光」と書かれるだけで、自分の中の光が光るのを感じるからだ。

人の響きと響き合う仕事を、現したいと思う。

現在、5時。少し空が白んできました。

どうぞ、今日も美しい一日を。

正敏

<正敏の仕事>

星の舞台の主人公への手紙×ブルーポートレイト

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